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学習学とは

学習学とは?

 人間が、人生の中で学ぶことは、学校で教わることよりもはるかに広く、深い内容を含んでいます。と ころが、これまで、教育の重要性については、多くの本が書かれ、専門家が研究し、「教育学」という学問分野として定着していますが、「学習」については、 体系的な研究が行われてきませんでした。「教育」と「学習」は、重なり合っている部分もありますが、突き詰めて考えてみると、正反対の方向性を持った行為 であり、考え方なのです。この小冊子では、教育と学習の根本的な違いを解き明かし、新しい「学習学」の考え方を説明させていただきます。

 「学習」という言葉を聞いた時に、あなたの頭の中には、どんなイメージが浮かびますか?
 黒板を背景に先生がこちらを向いて立っている、学校の教室を思い浮かべる人もいるでしょう。学習塾の風景や家庭教師の顔かもしれないし、試験の前日に、 夜遅くまで机に向かって勉強している自分の姿が浮かんでくるかもしれません。国語・算数(数学)・理科・社会・英語の学習参考書の表紙、学習研究社や小学 館が発行している雑誌のイメージかもしれません。

  このあたりまでを、私は、「狭い意味での学習」と呼んでいます。つまり文部省の守備範囲である「学校教育制度の枠組みの中での教科学習」を「狭い意味での 学習」と定義したいと思います。この小論では、「学習」という言葉を、さらに広い範囲を含めて考えることを提案しています。

学習の定義

 「学習」とは、人間が社会的に生きていく中で、
 より良い状態を作り出すために、自分の意志で、
 知識、思考、技能、感性、情緒、運動など、
 人間能力の様々な側面の1つ、あるいはいくつかの側面の向上をはかる行為

 この定義を細かく検討すると、「社会的に生きる」「自分の意志で」「人間能力の様々な側面」といった特徴的なキーワードについての説明が必要になりま す。それは、後にゆずるとしましょう。また、学校ばかりでなく、家庭や会社、地域社会など、さまざまな場面で学習は行なわれます。さらに、知識や技術を習 得するだけでなく、対人関係に熟達したり、自分の感情をコントロールしたり、健康を増進したりというように、人間生活のありとあらゆる側面について、学習 すべきことがあります。逆に言えば、人間として生まれて、学習しないでできることは、呼吸やまばたきなどを除き、ほとんどないと言ってもよいほどです。

 これまで述べてきたように、学習は、さまざまな要素を含み、また個人差が大きいため、一般化して論じるのは難しいように思えるかもしれません。しかし、 数学でも、料理でも、会社の経営でも、人間関係でも、学習する時に共通する上達の仕方、役に立つ考え方が存在すると、私は考えます。そしてその考え方を日 本語で「学習学」、英語でLearnology(ラーノロジー)と名づけました。

 ここで「学習学」を定義しておきましょう。

学習学の定義

 「学習学」とは、
 人間にとって最も基本的な行為である「広い意味での学習」について
 学習者の立場に立って、体系的に研究する科学

と定義しておきたいと思います。

 「広い意味での学習」は、人間生活のすべての領域に関わってくるので、「生きること」とほとんど同義語になります。とすれば、「人間にとって最も基本的な行為」と位置づけることができるでしょう。
 経済学は、人間を「経済学的合理性に基づいて行動する動物(ホモエコノミクス)と規定し、この人間観の上に立って理論体系を構築しています。これに対して学習学は、「人間=学習する動物」という人間観に立った科学ということができるでしょう。

 大ベストセラーになった野口悠起雄氏の「超・勉強法」、またその続編の「超・勉強法実践編」では、勉強を「すでに存在している知識の体系を習得するこ と」である(実践編27頁)と定義しています。これは、「学校教育」だけでなく「仕事に必要な知識技能の修得」までを含んでいるので、私の定義では「中範 囲の学習」と呼べるのではないかと思います。私が提唱する学習学では、「勉強」の範疇にも入らない領域も含めて、さらに広い範囲を考えています。

教育と学習の違い

   教育と学習の違いについても、簡単に触れておきましょう。

 

   教育は、個人の外側から内側へのはたらきかけ。
   学習は、個人の内側から外側へのはたらきかけ。

 すべての人が教育を受けようという気持ちを持っているかどうかは疑問ですが、私は、学習しようという意欲は、ありとあらゆる人の中に存在していると考えています。学習は、生きていくこととほとんど同義語に等しいほど、自然で普遍的な行動だと思います。

 幼児を見ていると、ともかく外界のありとあらゆるものに興味・関心をしめします。それがおもちゃだろうと、食べ物だろうと、手でさわり、口にして、何か を知ろうとする。誰かにそうしろと言われて、するわけではありませんから、ほとんど本能的な行動といっても良いでしょう。このように、外界に無限の興味関 心をもち、探究していくことが、学習の原点だと私は考えます。

 ところが、親や保護者は、見ていて危なっかしいから、それは駄目、これも駄目と安全を確保しようとします。もちろんそれは大切なことで、子供は次第に、手でさわって良いもの、口にして良いもの、を区別し、知識を身につけていきます。

 ところが、子供が学校に通う年齢になると(もっと早い場合もあるでしょうが)、むやみやたらに、興味関心を示すことは奨励されません。関心をもっても良 いこと、興味を向けてはいけないこと、の区別ができてきます。この区別は、親や先生から与えられるものといっても良いでしょう。たとえば、小学生であれ ば、学校の勉強に関係のあることはOKだけれども、危ない遊びやセックスに関係することはNOという具合に。もちろん、反発することもあるでしょうし、禁 止されているからこそ、かえってやりたくなるということも多いわけですが。(中・高校生の喫煙はその典型でしょう。)

 小学生というのは、6歳から12歳までの子供がもっているたくさんのアイデンティティの1つにすぎないわけですが、いつの間にか、「私=小学生=勉強す る子供」という部分の占める割合が大きくなっていきます。「私=遊ぶ子供」とか「私=コミュニティの一員」というアイデンティティはどんどん意識のすみに 追いやられていきます。「8歳の一人の人間」という全人格的見方はほとんど失われ、「小学生として良い子かどうか」という基準が大きなウエイトを占めるよ うになります。学習の幅は、どんどん狭くなり、学校で行なわれていることだけが、まっとうな教育であり、学習であるかのように刷り込みが行なわれていきま す。そして、「勉強=先生に教わること」という図式ができあがってしまうのです。

 学習は、本来、自主的なもので、強制することはできません。「馬を井戸端に連れていくことはできるが、馬に水を飲ませることはできない」という言い回し がありますが、学習についても同じことが言えます。教育がなくとも、学習は成り立ちますが、「学習なき教育」は、誰にとっても不幸なのではないでしょう か?

教育と学習の比較

 教育と学習を、わかりやすく対比させると、次の表のようになります。

  教育 学習
Who 先生中心 学習者中心
When 授業時間中
(一部生涯教育もあり)
一生涯(生まれてから死ぬまでのすべての瞬間)
Where 学校、教室 すべての場所
What 教科中心 すべての場所
with What 教科書 いろいろなもの
with Whom 先生と同級生 いろいろな人と、あるいは一人で
Why ニーズは共通
学生の学習目標
ニーズはさまざま
多様性が前提
How 教室方式集合学習
学習スタイルは共通
いろいろな方法で
学習スタイルはさまざま
How good 試験で評価
学習速度は一律の前提
内面的成長も認める
学習速度には個人差がある

 


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